真偽のほど

 最近ダ・ヴィンチ・コード関連のネタがテレビや雑誌でもかなり多くて、もちろんそれは映画公開にあわせたキャンペーンの一環なのだろうけれど、やはり興味を惹きやすいテーマでもあるのでタイミングがあえばチェックしてしまったりもする。そしてやはり世界各地のカソリックの一部(もしくはかなりの?)の人の反発もあって、さらに大きな話題を読んでいる。
 結局のところ、何が正しいのかは僕にはわからないけれど、例えば日本書紀古事記がそのまんま正しい記述ではないように、そして多くの歴史書が権力者の手によって書き換えられてきたように、聖書だって例外ではないだろうということは言えると思う。それはキリスト教のみならず、仏教であっても原始仏教と現在のいわゆる大乗仏教とは大きく異なっている。
 そうなってくると、「本質的になにを言いたかったのか」ということを知るということが重要なのだと思う。イエスであれ、仏陀であれ、その他の宗教家や思想家、すべてにおいて、まずシンプルに何を言いたいのかをそのまま受取るべきであって、そこから様々な解釈というものは、一部の文芸批評や映画評なんかにみられるような、「あえてそう読んでみました」という一種エンターテインメントなものとして受取るなら良いが、そうでないなら余程慎重に行うべきもの、そうでないならやってはいけないことでさえあると思う。
 が、やはり教会であれ寺であれ、なんらかの思想集団、学閥、そういうものができるといろいろと変わってくるわけで。僕は無神論者だが、間違った解釈によって「一生懸命祈ったけど、実はまったく神の教えと正反対のことをやってしまっていて死んだら地獄に落ちた」なんていうことにならないのか、信仰心厚い人たちが心配になってしまったりもする。
 まあそんなことは余計なお世話だろうからどうでも良いか。