夏休みが終わりました。
 といっても僕自身のまとまった休みが終わったとかそういうことではなくて、いわゆる学生にとっての夏休み期間が終わったという意味なのだが、考えてみると、連続一ヵ月弱もの長期休暇を失ってしまってからもう十数年。あれほど、直前には待ち遠しく、直後には憂鬱だったにもかかわらず、慣れの問題なのだろうけど、そういう長期休暇がなくても平気になってしまった。

 この「平気になってしまった」というのがやっかいだ。社会人としての強度があがったと考えれば、良いことなのかもしれないけれど、そんな長い時間、仕事無しでなにをするのか、というように、時間を持て余してしまうのだとすると、これは非常につまらないことだ。

 そこで、自分は実際どうなのかと考えてみたけど、一ヵ月どころか、残りの人生まるまる休みでも退屈はしないような気がする。というか、本来働きたくはないのだな、と思う。いや、そこはそれ、社会の中で生きていかねばならぬ、あるいは社会性なしでは生きてはいけぬ人間の宿命として、あるいは三十年以上の間につちかわれた倫理観や使命感によって、というか単に「働かざるもの喰うべからず」くらいのことでもいいのだけど、そういう意味で働かなきゃいかんとは思う。それに仕事自体がつまらないわけではないし。個人と社会の相互関係は難しいテーマでもある。
 
 で、だ。
 
 最近の教育談義で思う。教育再生なんちゃらとか、どこぞの社長とかなんとか先生とかいろいろいるけど、基本的にこのひとたちの発想は「社会にとって役立つ」という、しかも、ここでいう社会とうのが、人間社会というよりは、経済生活上の社会であったらい、国家であったり。
 それって産業革命以後延々と続けてきた、資本家あるいは権力者のための教育なんだよなあ、という気もする。こう書くとすぐ「あ、こいつ左だ」とかいうやつがいるけど、問題はまったくそういうことではなくて、そうした教育の結果どうなるのか、ということを、そういうやり方をはじめてから数百年経過するんだからいいかげん考えようよ、ということだ。